好きすぎて悲しくて嫌いになる。けど、そんな自分が嫌で凹む。
実に頭の痛い話をツイッターで読んでしまった。
まさしく自分はそうである。ごめんなさい。
先日聞いた話。知人の息子1歳はイチゴ大好き。一皿出されると狂喜乱舞して食べ始めるのだが、食べていくうちに「イチゴを食べる喜び<イチゴが減っていく悲しみ」になるらしく、残り一個になったとき悲しみのあまりその一個をぶん投げてしまったそうだ。人間の幸福とはなにか考えさせられる話である。
— Littlebamb (@Littlebamb) 2015年5月13日
素直に喜びを受け付けなくなるのだ。
「あーーーーおいしかった!」じゃないのだ。
自分と重なるのが、さくらんぼ。
小さい頃からパフェとかに乗ってる毒々しいさくらんぼが好き。
それを知ってる人は喫茶店に行くとプレゼントしてくれてた。
基本的には好きなものは最後に残す。
それ以外はにこにこ綺麗に食べて、最後の一口を口に運ぶまでが、ものすごく悲しい。
「楽しかったもの、美味しい時間が終わってしまう」
だったら、食べなきゃいいんじゃ…そう思ったこともある。重症だ。
終わることが基本的に苦手なのだ。
どんなに駄作だといわれているゲームですら、エンドロール流れた瞬間に悲しくてつらくなるのがわかってるから、ラスボス前のセーブポイントで止まっていたりするものが多い。
小説もそう。短編集のものですら、次の作品を読み進めるのをやめてしまうくらい引きずる。
話が悲しいときもあるけれど、基本的には、その主人公たちの生活、物語いろんなものが終わってしまい、身体中が焼け焦げたように苦しくなる。
心の中で旅を続けてる、そんなことを思ったりすることもあるけれど、基本的にはもっともっとその世界にいたい、って。
現実世界でも、誰かと遊んでいると終わりが来るのが苦手なのだ。
もっと一緒に遊びたい、さようならって言うのことがなかなかできないでいることの方が多かった。
なので、用事があって、ここでさようなら、というと、なんで!?って言われた時は、心底心が痛かった。それ以来、やっぱり自分はさよならって言わない方がいいのかもしれない。と思うこともある。
でも、相手がじゃあここでって、いうと満足していないのにそれを受け入れざるをえないから、不満・・・ていうか不安が溜まる。受け入れてる、のにだ。
よくないんだろうな・・・こういうの。
書いてみるとめんどくさいな、自分。自覚してはいたけど(笑)
このツイートを読んだときに、1歳児でもなるのだから、生まれ持ったものなのかもしれない。と思ってしまった。
人の感情とは奇なるものだと思った。
飛び立つウミネコにすら旅の終わりの哀愁を感じたんだよ。
本当に。
今日は訪問治療の日だった。
入院費を浮かせる為に、極力、治療を家で受けることにした。
治療費の融資の話をしに行く予定だったけど、今日はボイドタイムなのでやめた。
まだまだもがく。水面下のあひるのように。